コーヒーとは面白い飲み物です。
カップ一杯の液体を有りがたい、有りがたい、と時間をかけて味わう人も居れば、
味は何でも良く、気付け薬的役割を求める人もいます。
豆から選び、器具もこれでなくてはとこだわる人もいれば所詮コーヒーは苦くて苦手と
言って生涯あまり口にしないも人もいます。でも知らない人はいない飲み物のひとつです。
街を数十メートル歩けば様々なコーヒーショップが共存しています。
私がコーヒーの味をただひたすら追求していた頃の話。
北は北海道から南は沖縄まで、その土地で美味しいとされている自家焙煎の豆を買いまくっては
フレンチプレスやネルドリップで入れてみて、そのレビューをするということをひたすらやっていた
時がありました。各県で代表的なコーヒー店というのは一通り飲み、累計は150店以上になっていたと思います。
3日3晩寝る食べる以外はドリップポットの湯量をコントロールする練習だけを耽々とやっていた時間もありました。
幸いなことに人に振舞う機会があり、それを生業としてやっている方から高く評価していただける事もありました。
それは嬉しかったのを覚えています。
ところがです、味の追求に熱心になればなるほど周りから理解されなくなっていく、
周りが見えなくなっていくということも思うようになりました。
喫茶店のマスターは昔から頑固親父なイメージがついていますが、
それは言葉でなくてもその立ち振る舞いから「味が分かるやつだけに分かればよい」
という声が伝わってしまうからでしょう。
あるときにこんなことがありました。
美味しいコーヒーが飲みたいという友人を一時間以上かけて電車に乗ってお店に連れて行きました。味に間違いはない、と私の中では自信を持って誰にでも推せるお店でした。私が行くといつも珈琲に対しての研究成果を興味深そうに聞くからでしょうか、その姿勢のまま「私達2人」に対してそれは老練な大学教授がするような珈琲講義が長々と始まったのです。目の前にいるその友人の態度から明らかに息の詰まるようなサインが見えていました。それでも終わりの見えない講義は続きます。直感的にこれはまずい!と思い立って半ば話を折るようにして帰りのタクシーを手配のお願いしたのでした。
帰り道その彼女が開口一番に
「何で珈琲屋のマスターって格好が良い人がいないのかなぁ。」
と言うのを聞いて、ガツン殴られたような思いをしました。
今まで習った技術を追求してひたすらに美味しいものをと追求してきたことは一体何だったのか。
コーヒーを飲みながら過ごす人の気持ちを考えなくては、いくら味が良くても雰囲気が良くても台無しだということに気づかされた出来事でした。
別の話、味が都内でもトップクラスだろうというお店を別の友人に勧めた時のことです。
「確かにあのお店の豆をお遣いで買うことはあるけど、店員同士が何か厨房で張り合っているし…ほら、うちのコーヒー美味いでしょ、という顔をして出してくるからゆっくり飲みたいとは思わなかった。」と言われてしまいました。それは身も蓋もない言葉でした。
これらは全く素直で正しい感想であったと思います。二人ともにものの味が分からない人では無かったからです。
味の追求に関して手を抜かないのは飲食店をやる以上は当然の姿勢ですが、空間においての主役は誰なのか、コーヒーなのか。そこは慎重になる必要があると感じました。またコーヒーに限らず飲み物というのものはそれを起点にしてその人が次に取り組むものが必ずあります。
たとえば
コーヒーを飲んで、落ち着いた状態で話をする
コーヒーを飲んで、作品を鑑賞する
コーヒーを飲んで、考えごとをする
飲んでその次に取り掛かること含めての時間がその人にとっての出来事となります。
ギャラリーに行って展示作品を見るときに、作品をパッとみてサッと帰るという人がいます。そこに温かいお茶やコーヒーが出てきたらどうでしょうか。一旦落ち着いてより偏見が無いニュートラルな状態で作品に向き合えるかもしれません。
見る事自体を用事と捉えていたことが用事でなくなる可能性も出てきます。仕事帰りにふらっと寄ったお店でたまたま出てきたコーヒーが滅茶苦茶美味しかったという1日であれば素敵です。コーヒーを飲みに来たということではなく、見るものがあって、飲んで、考えて、という一連の出来事がその人にとっての体験として残るからです。
コーヒーが好きな人に淹れたものを美味しいといってもらえることはもちろん嬉しいです。
でも、今までコーヒーが美味しいと思わなかった人にたまたま飲んでもらう機会がありこれなら飲める!と言ってもらえた時が何回か過去にあり、その時はもっと嬉しかったなと覚えています。
ただし、コーヒーはあくまでも主張しないこと。
その場にある作品や商品、また来てくれた人を主役に引き立てる為の一素材としての役割に徹すること。
そうあれたら、来た人がまた来たいと思う場所に自然となるのではと思うのです。
その上で”普通のお店では飲めないようなコーヒーをつくれる技術”が必要となります。
コンテンツとその場所と来た人、お互いを引き立て合うような一役割を cafe kanata は担っていきたいと思っています。